松右衛門帆の特徴について正しく理解するのは、工樂松右衛門公式サイトのページです。工樂松右衛門帆がなぜ注目されているのか、表面的な知識や説明で理解したつもりならないようにしてください。
“松右衛門帆が日本最古の帆布である”ある、とか“帆布の始祖”であると説明しているホームページがありますが、正しい史料に基づくと誤りです。松右衛門より以前に日本でも綿の帆布はありました。 「17世紀の初めには詳細は不明ですが木綿帆の使用が確認されています。」(石井謙治著『帆について 上』)。
慶長17年(1612年)、毛利輝元が三田尻御船手組宛てに書いた定書があり「一、はや船はもめん帆、かき色無紋之事」と記されています。水軍で名高い毛利家は大坂冬の陣前に徳川と豊臣の決戦において「早船」と称される船に木綿の帆布を用いた可能性が高い、と。(『近世海事の革新者 工樂松右衛門伝―公益に尽くした七十年』松田裕之著66頁)
さらに「豊臣秀吉の作らせた日本丸は(中略)千五百石積みで櫓百挺、帆布角帆が一箇帆柱の正中にかかり、順風の時に用いたというし、末次船も四角形の前に「笹帆」を張り、後ろ帆柱には木綿の三角帆をつけ、船首には小型の遣り出しの帆で四角形の木綿帆であった」(関西重布会発行『帆布の今昔』)という記録もあります。
また松右衛門帆の特徴を、「太い綿糸をたて、よこ2本ずつで織られていること」と誤って紹介されていることがよく見受けられます。そのような織り方を発明したことが「松右衛門帆の特徴」であると説明しているのは大きな間違いです。こうした誤解を根拠に、「松右衛門帆」という名称で製造している帆布業者があります。そうした“織り方をまねているから松右衛門帆だ”というのは全くの誤解です。たて糸2本、よこ糸2本で織られている平織り組織は、松右衛門が開発した以前にも見られます。松右衛門が開発するまでの帆布は、丈夫さを保つために、厚手の木綿の布がなかったので普通の綿布を2枚、もしくは3枚を重ねて太い綿糸で刺し子にして縫い合わせ、三幅(凡そ2.2〜2.5m)に聯綴し、それを1反として使用していました。それを「刺し帆」と言いますがそのための作業は大変な手間と時間を要し、その割には脆弱で長持ちしなかったのです。
【刺帆出典】
ブログトップ「技術革新だった松右衛門帆」より
工樂家所蔵の松右衛門帆
綿布2枚合わせの刺し帆(左)と松右衛門帆(右)
そこで松右衛門は、帆布の製造に工夫と改良を加え、まず太い木綿糸を使用することにより厚手の帆布の試織に苦労します。それにより、面倒で手間のかかる刺し帆に代わる、丈夫で扱いやすい帆布に仕上げる作業に一所懸命取り組みます。松右衛門が開発した帆布は、幅約2尺5寸(73.5~75cm)、長さ約53尺(16-17m)もの厚手の帆布です。
しかしそれだけでは、実用には不十分です。もっと重要な工夫が必要でした。実際の大きな船の帆に利用する場合、松右衛門が開発した厚手の帆布を何枚もヨコに繋いで一枚の大きな帆に仕上げて(何枚つなげるかによって、何反帆と称して船の大きさに応じて帆を調整した)使用するため、その帆布と帆布を繋ぐその両耳の織り方に、松右衛門が苦労したもっとも重要な工夫と特徴があるのです。
糸の太さ1ミリ強の縒りの弱い木綿の糸をたて糸2本、よこ糸2本で織った柔軟性のある木綿の帆布で、幅は2尺2,3寸から2尺5寸(約75センチ弱)。そしてその両端(耳)をわざと縦糸1本にして、しっかりと織っている点が最大の特徴です。その理由は、その幅の帆を横に3枚、4枚と紐でとじ合わせる(一反帆とする)際、その繋ぎ目が丈夫でないと裂けてしまって帆としての役に立たないのです。そうした両耳の織り方が違う、という特徴を備えていない帆布は、松右衛門帆とは言えません。
一反帆、一反帆を太い紐(ロープ)で繋ぐ場合には、その繋ぎ目が丈夫でなければ裂けてしまい、大きな帆の面積で風を受けることができません。さらには、その繋ぎ目に隙間があることによって適当に風を逃がして(通して)、帆の操作性を高めているのです。そのためにも両耳部分は、最低一寸(約3センチ)はしっかりと織ることが必要です。
この松右衛門帆の実際は、工樂家に保存されている「工樂松右衛門創始試織帆布」を正確に調査し、可能な限り忠実に再生された松右衛門帆として大阪の「なにわの海の時空館」に保存されている浪華丸に見られます。この船は大阪市制100周年事業として江戸時代の北前船、「弁才船型菱垣廻船」を実物大に復元製作されました。その際、浪華丸に使用する帆布の製造にあたり、和船の研究の第一人者としてよく知られた東京大学大学院総合文化研究科の安達裕之教授、大阪大学の野本謙作名誉教授、神戸商船大学の松木哲名誉教授らによって詳細に検分・調査され、それを元に帆布製作の専門業者の協力によって製造(平成11年7月完成)されました。
その松右衛門帆は、千石積の浪華丸の帆として帆の厚みは約2~3ミリ、横幅約18メートル、長さ約20メートルの巨大な帆として再現され、実際その松右衛門帆を張って大阪湾で試験帆走され、実用に足りる有効な帆布であることが実証されました。高砂の工樂家旧宅に展示され『これが松右衛門帆です』と紹介されている帆布とは、全く異なります。
現在、なにわの海の時空間は閉鎖中でその復元された松右衛門帆は、一般には見ることが出来ません。しかしいずれ再び公開されることを願っています。
大阪、浪華丸に使用された復元松右衛門帆(大阪市港湾局企画記録ビデオより)
松右衛門帆の松右衛門帆たる独自性は、以下の3点を兼ね備えていることです。ひとつの特徴を満たしているだけでは松右衛門帆とは言えません。
タテ糸2本、ヨコ糸2本の太い木綿糸のよりを弱く、織り目を少しゆるく織っていることにより、帆布の中央部分は柔軟性に富んでいて、巻いて場所を取らずに折りたたみ易いような工夫がされているのです。すなわち、和船においては、嵐や時化(しけ)の時には帆を下ろし、折りたたんでおく必要がありますから、その際の折りたたみやすさ、柔軟性(フニャフニャであること)も考慮されているのです。堅くて丈夫すぎると、折りたためません。したがって松右衛門帆布の柔軟性は、形あるモノに利用するのには不向きでしょう。
他方一般帆布は、その点丈夫で、バッグやリュックに最適です。人類最古の織物は麻と言われていますが、その麻の帆布らしきモノがエジプト時代に既に織られていたようです。日本でも、明治17年滋賀県に近江麻糸紡織(株)、続いて北海道製麻(株)などが設立され、麻の帆布が製織されました。これらは後の帝国製麻(株)の前身となります。大正時代や昭和初期には、亜麻製帆布が国鉄の貨車のシート用に油引きをして使用され始めました。その他郵便行嚢用袋などにも多用されました。その後アメリカから産業用の綿帆布が輸入され、その後は軍需用を中心に大砲の覆いカバー、テント、リュックにと、一般帆布の需要は大きく広がっていきましたが、今日その丈夫な一般の帆布製バッグがファッション性を加えて見直されてきています。こうした用途は松右衛門帆とは無関係で、本来の船の帆とは用途が全く違うのです。
松右衛門帆は、 寛政二年 (1790年 )に販売を開始しました。
工樂松右衛門がそのユニークな帆を苦労して発明した後、特にその製法を松右衛門は独り占めすることなく自由に作って航海の安全に役立つことを願ったためか、短い期間で松右衛門帆は全国に広がりました。もちろん、その松右衛門帆の創製に協力してくれた兵庫津の船具商の功績も無視できません。しかし当時の船主達が自由に製作することを止めさせなかったことが仇となって、松右衛門が発明した帆の重要性を理解せず、本来の松右衛門帆の製法、特長を備えない粗悪品が出回ったことに初代、二代目松右衛門はずいぶん頭を悩ませていました。
そこで三代目松右衛門の時に、粗悪品の帆が出回っていることに対して松右衛門が改め方(検査)を行って品質管理をしたい旨、安政三年に姫路藩や幕府に願書を出していたくらいです。例えば、品質の悪い糸を使ったり、手抜きの織り方をしているのですぐに裂けてしまうなど、本来の松右衛門帆の特徴を備えていない品質の松右門帆が多く出回っていたのです。
そういう粗悪品かもしれない生地のサンプルとして研究用に博物館に寄贈した切れ端を参考に、それを再現して松右衛門帆を製作したという帆布バッグメーカーがあります。今の時代でもそういうことがあるのは残念なことです。
利根川の高瀬船などで実際に使用されていた松右衛門帆


千葉県立関宿城博物館蔵「松右衛門帆」